書家の写真 ∞ 八戸香太郎

活動してきた各国の街を撮影中。オフィシャルなHPは→→→

真っ白4





つづき
(前回までの話は「カテゴリー」の中の「文章・詩」にあります。)


「あぁ、いままでやってきた事って何なんかなぁ」


それが頭に浮かんできた台詞だった。いままでちょこちょこやってきて、残ったものはたかだが何枚かの写真と何文字かの文章。それだけだ。
作品をつくる。で、それが売れる。売る為につくるわけではないが、売れなければ生活が成り立たない。

何か他の事で収入を得ながら作品をつくるのも良い方法かもしれないが、それでは限りなく趣味に近い性質を持ってしまう事になる。
少なくてとも私の中ではそうだ。そしてそれが恐い。

例えばピアノ教室の先生とピアニストは違う。ゴルフのレッスンプロとトーナメントプロは違う。カメラマンとフォトグラファーと写真家は、違う。それは優劣の問題ではなくて、質の違いだ。教えながら試合に出ていても良いけど、それぞれ求められているものが違う以上、
同時に行う事にあまり意味はない。というか時間的にも精神的にもバランスを取るのが難しいのだと思う。私が専門学校や大学で教えていた時はこう思っていた。

「早くこの状況から脱出したい。」

とりあえず、というスタンスで何か別の仕事をしながら、それでも作品をつくりたいと願い、そして制作している人の中で、良い作品をつくっている作家を私は知らない。
逆に作品がキレてる人の中に、教えるのが上手い人は少ないのではないか。

ギリギリのところでせめぎあっているから出せるものがあるのかもしれない。コマーシャルベースでやっているアーティストは、多かれ少なかれ、皆そういう
崖っぷちのところで生きているのだと思う。確かに理想はそうでも現実は厳しすぎるくらい厳しい。けれども少なくともその方向に向かって、皆、苦心しているのは間違いない。
そしてその方向は間違っていない、と信じたい。

で、作品が売れると嬉しい。本当に嬉しい。向こうは安くないお金を支払って、無名の私の作品を買うのだ。その人は、その作品にはそれくらいの価値がある、と認めてくれたわけだ。
作品をつくるという事は、ある意味とてもリスキーな行為だが、客もまたリスクを背負って購入している。大量生産できない作品は特にそうだ。何時間も真剣に悩む客を遠くから眺めていて、あぁ、いま作品とその人は闘ってるんだなぁ、と思う事も少なくない。ギャラリーを介す場合には、そこにギャラリスト登場し、さらに闘いは過熱していく。買う方が気合いを入れて向かってくるわけだから、つくってる方がぬるま湯に浸かっていたのでは話にならない。

そうしてようやく作品が売れた後、私は考える。


果たして残ったものは一体何だったのか。


実際何もないのだ。
作品の対価はすぐに次の作品をつくる為の材料費になり、あとはアトリエやスタジオ代を払えばすぐに消えてなくなってしまう。いまの状況は正直そんなところだ。だから自分に残されたものは、完成した暁に記念撮影してあげた写真だけ。平面作品ならまだ良い方だと思う。インスタレーション作品なんてほとんど売れるような形式を持っていないから、観に来た人の記憶と、記録するために撮った写真だけが唯一の証になる。

なんと無情で無意味な事か。本当にそれで良いのか。

そういった、アート学生なら一度は通りすぎる壁を今更蒸し返しながら、私は考えた。そしてやっぱりいつもの一点に戻る事になる。

「でも趣味でやるつもりはない。」

趣味ならただただ楽しいのかもしれない。しかしその「ただ」というのがやっかいで、楽しむ事を最終的な目的にしていない人にとって、それは苦痛でしかない。それに、そもそも楽しさを求めてるわけじゃない。

快感にも似た達成感は、楽しさとはまた違った次元の、しかもギリギリのところにあるような気がする。私の場合は更にもうひとつ、作品をつくる根拠を探し出すとしたら、それは「自分の存在の肯定」になるだろう。作品をつくっていると、何だか自分がこの世に存在していて良いんだ、という錯覚に自分を落とし込めるから気持ちよいのかもしれない。

作品が自分を支えているんだという小さな見栄とプライド。そして自尊心。
そんな、他人からみたらどうでも良いものが、実は本人にとっては一番大事なものだったりする。

だから私は、その写真や文章に金銭的価値があるのか、あるいは金銭的な価値を生む可能性があるのか、という問いには答えられない。
というよりそんな事はどうだってよい。ただ売られていった作品の肖像が、私の手元にある事によって、今の自分を慰めているという事なのだろう。
ひょっとしたら、そんな事に無関心になれた時に初めて、次のステップがやってくるのかもしれない。


一時間くらいぼーっとした後に来たところはマックストアだった。


新しいmacbookを買った。



時間は進んでるんだ。




オワリ



*事後録
データはサルベージ会社の尽力により復旧しました。
そして復旧したデータを見て、改めて考えました。
「このデータに○○万円の価値なんかあんの?」

その答えはまだ分かりません。

多分、イッチョマエの作家になった時にはじめて「昔の作品」のデータが必要になってくるのだと思います。

過去の作品の価値を決めるのは未来の自分なのか。でも未来の自分を決定づけるのは今の自分なんだよな。そして今の自分は過去の自分によって支えられてるわけだ。


そんな堂々巡りの矛盾を感じながら、画面上の残高を見つめるばかりの毎日です。


「次の制作費ねぇーよ!」








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