書家の写真 ∞ 八戸香太郎

活動してきた各国の街を撮影中。オフィシャルなHPは→→→

みえてない

およそ人間は見たいものしか見ない。
よく「客観的に述べよ」という言葉を聞くが、それはほぼ不可能に近いのかもしれないと思った。まぁ「的」なので、それっぽく言えばいいという事か。

しかし最近の自分的NGワードは「〜的」「〜な感じ」「一応」「とりあえず」だ。とりあえずそんな感じだ。

なので、どうして人間はそんなに「見ていないのか」考えてみた。


昔、真理は楕円だと禅宗の坊さんから教えてもらった。学生時代の話だ。教えてもらった時は何の事かさっぱりだったけど、どうやらそれは、楕円には常にふたつの頂点があるという意味なのかな、と思っていた。陰と陽、全ての出来事には常に二面性があると言い換えても良いかもしれない。

しばらくして、今度はその坊さんに「真理にはいつも楕円。つまり物事の二面性を言っているんですね」と言うと「真は円であって円でない」と言われた。

「この前楕円て言ってたやん!」何のこっちゃ。

だいたいそういう物言いからしてトンチというか一休さん的というか、要するに禅坊主って感じだなぁ。

で、ぼーっとしながらふと思ったのですが「真は円にして円にあらず」というのはどうやら球の事を言っているのではないかと。つまりひとつの事実を捉えて分かったような気になるのが人の常だけど、真実というのはそんなものではなく、角度を変えて無数にあり、それが集まった状態が即ち「球」なのかな、と。だから「円であって円でない」のかなと。

違うかな!?

私はそこからまた少し考えて、「ビー玉は真理」という事にしてみた。

球体はたくさんの面を持っていて、観る角度によって光を集め、時には反射させて、様々な表情をみせる。しかしどのような面だとしても、球は球であって、ひとつだ。つまり真理の中にはたくさんの真実が隠されているのだけど、姿形が変わってもやっぱり真理は常にひとつ、という事か。か?

あれ?

こういう風に考えてしまうと思考のスパイラルにハマってしまって落としどころがなくなる、という事も分かっているのだけど、どうしても言語で理解しようとするとそうなる。でも何となくイメージは掴めたし、これ以上考えるとメンドクサクなるから今のところは良しとしよう。

と考え事をしながらビー玉で玩んでいると、ころころを転がってどこかに行ってしまった。ん!?それをさっきの「真理はビー玉である」に置き換えると、真理は球体故にフッと目を離した隙に捉えどころなく転がっていって消えてしまう、という事になる。きちんと捕まえていないと離れてしまうのが真理なのかもしれない。

またビー玉を光にかざしてみた。目の前にある景色は確かに見慣れたものなんだけど、ビー玉の中の景色は天地が逆になっていた。当たり前といえば当たり前なのだが、これも先ほどと同じように考えると「ある人によって正しい世界は、またある人によってはただしくない世界である。しかし世界そのものは変わっていない」という事になるのかもしれない。

目の前にある景色だけを見ていては逆さまになった世界は見えないし、その逆もまた然りである。

では一体私は何を見ているというのか。

人間の脳は随分とよく出来ていて、これは本能的な防衛反応からなのか、見たい事実を「真実」と捉える傾向にあると思う。いつでも自分にとって都合の良い事実のみが「真実」なのだし、反対に見たくない事実は「真実」でも何でもなく、嘘であり、まやかしであり、その内忘れるようになっているのはないか。

だから真実なんて探しても、たいした意味なんてないのかもしれない。しかしそこに何があるのか、やっぱり見ようとする姿勢は必要だと思う。


とりあえずそんな感じでビー玉を眺めていた今日の朝。


さぁ、二度寝しよ。







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    にせもの





    にせもの=似せたもの=本物じゃない。

    何とか風
    何とか系
    何とかっぽい

    つまりパクリ

    別ににせものが悪いわけじゃないし、パロディや模倣は現代アートでは一つの手法として成り立っているのも事実。

    むしろ本物なんてこの世には存在しなくて、全ては模倣の繰り返しだ、と言う人もいる。

    でもそういう事じゃないんだよなー。

    なんて言うか、そういう表面的な事じゃなくて、精神的に脆弱な人がパクるとやっぱりつまんないものしかつくれないんだと思う。挑戦する姿勢でオリジナルに突っ込んで行くパロディやリスペクトとしてのオマージュではないから。

    観てる人には分かんなくても、つくってる本人はやっぱりその辺の事をどこかで自覚しているわけで、それでも表面上は知らんぷりしてます。でもそういった作品はどう見繕ってもやっぱり弱いんだなぁ、というのはどのジャンルでも感じる事。

    本物のパロディだってあるのに、本物っぽい偽物はどうにもならない。

    要はにせた'だけ'のものはつまんないて事。

    私なんか別に新しい漢字を発明してるわけじゃないから、簡単に言うと3500年前から使われてるものの模倣です。それで文字をこねくり回して、どうだの、こうだの、とやっているわけで、それだとやっぱりつまんないから、今この時代、そして自分だからこそ感じているものを注入しなきゃ、と思ってます。だからその中身は、パクるって事とはちょっとだけ違うのです。だって百年前と同じ事を何の疑問も持たずだらだらとやっていて、一体何の意味があるんでしょう。そんなのは伝統でも何でもなく、堕落です。

    てな事を昔、相当偉い先生に言って、めちゃくちゃ怒られた事があります。
    「ひよっこが何様だ!」と。


    「俺様だ」と。




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      真っ白4





      つづき
      (前回までの話は「カテゴリー」の中の「文章・詩」にあります。)


      「あぁ、いままでやってきた事って何なんかなぁ」


      それが頭に浮かんできた台詞だった。いままでちょこちょこやってきて、残ったものはたかだが何枚かの写真と何文字かの文章。それだけだ。
      作品をつくる。で、それが売れる。売る為につくるわけではないが、売れなければ生活が成り立たない。

      何か他の事で収入を得ながら作品をつくるのも良い方法かもしれないが、それでは限りなく趣味に近い性質を持ってしまう事になる。
      少なくてとも私の中ではそうだ。そしてそれが恐い。

      例えばピアノ教室の先生とピアニストは違う。ゴルフのレッスンプロとトーナメントプロは違う。カメラマンとフォトグラファーと写真家は、違う。それは優劣の問題ではなくて、質の違いだ。教えながら試合に出ていても良いけど、それぞれ求められているものが違う以上、
      同時に行う事にあまり意味はない。というか時間的にも精神的にもバランスを取るのが難しいのだと思う。私が専門学校や大学で教えていた時はこう思っていた。

      「早くこの状況から脱出したい。」

      とりあえず、というスタンスで何か別の仕事をしながら、それでも作品をつくりたいと願い、そして制作している人の中で、良い作品をつくっている作家を私は知らない。
      逆に作品がキレてる人の中に、教えるのが上手い人は少ないのではないか。

      ギリギリのところでせめぎあっているから出せるものがあるのかもしれない。コマーシャルベースでやっているアーティストは、多かれ少なかれ、皆そういう
      崖っぷちのところで生きているのだと思う。確かに理想はそうでも現実は厳しすぎるくらい厳しい。けれども少なくともその方向に向かって、皆、苦心しているのは間違いない。
      そしてその方向は間違っていない、と信じたい。

      で、作品が売れると嬉しい。本当に嬉しい。向こうは安くないお金を支払って、無名の私の作品を買うのだ。その人は、その作品にはそれくらいの価値がある、と認めてくれたわけだ。
      作品をつくるという事は、ある意味とてもリスキーな行為だが、客もまたリスクを背負って購入している。大量生産できない作品は特にそうだ。何時間も真剣に悩む客を遠くから眺めていて、あぁ、いま作品とその人は闘ってるんだなぁ、と思う事も少なくない。ギャラリーを介す場合には、そこにギャラリスト登場し、さらに闘いは過熱していく。買う方が気合いを入れて向かってくるわけだから、つくってる方がぬるま湯に浸かっていたのでは話にならない。

      そうしてようやく作品が売れた後、私は考える。


      果たして残ったものは一体何だったのか。


      実際何もないのだ。
      作品の対価はすぐに次の作品をつくる為の材料費になり、あとはアトリエやスタジオ代を払えばすぐに消えてなくなってしまう。いまの状況は正直そんなところだ。だから自分に残されたものは、完成した暁に記念撮影してあげた写真だけ。平面作品ならまだ良い方だと思う。インスタレーション作品なんてほとんど売れるような形式を持っていないから、観に来た人の記憶と、記録するために撮った写真だけが唯一の証になる。

      なんと無情で無意味な事か。本当にそれで良いのか。

      そういった、アート学生なら一度は通りすぎる壁を今更蒸し返しながら、私は考えた。そしてやっぱりいつもの一点に戻る事になる。

      「でも趣味でやるつもりはない。」

      趣味ならただただ楽しいのかもしれない。しかしその「ただ」というのがやっかいで、楽しむ事を最終的な目的にしていない人にとって、それは苦痛でしかない。それに、そもそも楽しさを求めてるわけじゃない。

      快感にも似た達成感は、楽しさとはまた違った次元の、しかもギリギリのところにあるような気がする。私の場合は更にもうひとつ、作品をつくる根拠を探し出すとしたら、それは「自分の存在の肯定」になるだろう。作品をつくっていると、何だか自分がこの世に存在していて良いんだ、という錯覚に自分を落とし込めるから気持ちよいのかもしれない。

      作品が自分を支えているんだという小さな見栄とプライド。そして自尊心。
      そんな、他人からみたらどうでも良いものが、実は本人にとっては一番大事なものだったりする。

      だから私は、その写真や文章に金銭的価値があるのか、あるいは金銭的な価値を生む可能性があるのか、という問いには答えられない。
      というよりそんな事はどうだってよい。ただ売られていった作品の肖像が、私の手元にある事によって、今の自分を慰めているという事なのだろう。
      ひょっとしたら、そんな事に無関心になれた時に初めて、次のステップがやってくるのかもしれない。


      一時間くらいぼーっとした後に来たところはマックストアだった。


      新しいmacbookを買った。



      時間は進んでるんだ。




      オワリ



      *事後録
      データはサルベージ会社の尽力により復旧しました。
      そして復旧したデータを見て、改めて考えました。
      「このデータに○○万円の価値なんかあんの?」

      その答えはまだ分かりません。

      多分、イッチョマエの作家になった時にはじめて「昔の作品」のデータが必要になってくるのだと思います。

      過去の作品の価値を決めるのは未来の自分なのか。でも未来の自分を決定づけるのは今の自分なんだよな。そして今の自分は過去の自分によって支えられてるわけだ。


      そんな堂々巡りの矛盾を感じながら、画面上の残高を見つめるばかりの毎日です。


      「次の制作費ねぇーよ!」








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        京都の恥部(臭いものにはフタをしろ!)




        とつぜんですが、皆さんゴミを捨てた事ありますか?

        ありますよね、普通。みんなあると思います。

        じゃ、どこに捨てますか。


        日本だと道路に捨てますよね、普通。
        決められた場所、決められた曜日にゴミ収集車が来るわけです。

        じゃ、そのゴミはどこに行くか知ってますか?

        多分焼却場だと思います。

        燃えるゴミはそうですよね。では燃えないゴミは?埋め立て用地に直行?

        大体ゴミの分別ってしてますか?

        これは都道府県、それぞれの市町村によって違うと思います。分別する街とそうじゃない街がある。あるいは分別していてもその方法や分別種類がそれぞれ違う。出るゴミは一緒なのに。この辺から大分怪しくなってくるのですが、これ以上突っ込んで考えないのが大人仕様てわけです。

        「臭いものにはフタをしろ」

        これが日本の見えない法律である事はうっすらと知っていました。フタをしたら匂いませんもんね。


        でも、そこに臭いものがある事には変わりない。
        見られたらマズいものにはとりあえずフタをして、そこから離れる。あるいは気付かないフリをする。そしていつしか忘れ去る。この思考方法は日本の至るところで出会っているような気がします。


        話をもとに戻しましょう。


        燃えるゴミは焼却場へ。

        燃えるゴミの中に燃えないもの、たとえば空き缶を入れておいたらだめですよね。焼却できずに燃え残ってしまうからでしょうか。ふーん。

        誰かが決めたルールだから盲目的に受け入れる。

        お上が決めた事だから何も考えずに従う。

        私もそうしてます。その方が楽です。考えなくていいんで。


        じゃ燃えないゴミの中に燃えるゴミを入れたらどうでしょう。燃えないゴミが埋め立て地に行くなら燃えるゴミが入っていても問題ないような気もします。

        最近はリサイクル用品の分別なども流行ってますね。ほんとに流行ってるって感じです。

        京都では最近までペットボトルなどのリサイクル用品(と一応呼んでいるもの)の分別をしていませんでした。去年までそうでした。
        ところが今回帰国してみると、いつのまにか分別するシステムに。指定のゴミ袋で出さねばならず、しかも分類が細かい。

        そして指定のゴミ袋、これがまた予想通り、べらぼうに高い。そして品質が悪い。

        ま、これは他の行政区と一緒で利権です。ゴミ袋が指定って事はゴミ袋を製造しているメーカーも指定されてるってわけです。つまりその製造業者はシステムが変わらない限り、永遠に安定した受注を受けられるんですね。

        恐らく天下り先がからんでるか、あるいは特定業者が受注しているのでしょう。うがった見方をすれば、その利権を生むために指定ゴミ袋が存在しているようにも思えて来ます。冷静に考えれば、ゴミを分別する事とゴミ袋を変える事に関連性なんかありません。そしてそれは、環境の事を考えて分別しているわけじゃない。

        なぜそういえるのか。

        実は京都にはゴミ処理場がいくつかあります。燃えるゴミは焼却し、燃えないゴミや粗大ゴミは粉砕した後に焼却します。名前は「クリーンセンター」。とっても美しいネーミングですね。

        このクリーンセンター、実に優秀で、なんでも来い状態でゴミを待ち受けています。つまり、、燃えないゴミも燃えるゴミも粗大ゴミも、全部ここに来てたってわけです。

        え?

        そうです。皆さんがわざわざ仕分けして出したゴミはここで一緒になってたわけですね。すばらしい仕組みでしょう。行き先は一緒なんです。どんなゴミの仕分けをしようが、どんな色のゴミ袋で出そうが、何の意味もないって事です。

        もちろん行政に言わせれば、いろんな理屈をおしえてくれるでしょう。でも根本的にはそういう事です。これはどこの行政区でも似たような状況かと思います。もし違ってたら教えてください。


        なんでいきなりそんな話をしたかというと、このクリーンセンターは一般の人もゴミを持ち込めまして、つまり何でも捨てて良いのでして、最近行って来たわけです。そのへんの事は前に書いた文章で御察しの通りです。


        粗大ゴミ、例えば壊れた家具とか、ベッドとか、あるいは壊れた自転車とか、どうしてますか?
        引っ越しの時とか、家具を買い替えた時、どうしても粗大ゴミが出ますよね。

        もっといえば家を建てた時、内装を変えた時、その時ゴミがでますよね。さらに言えば家の前の道路をつくった時、道路の標識をつくったとき、信号機をつくった時、そしてそれが壊れて交換する時、ゴミが出ますね。そのゴミはどこに行っているのでしょうか。


        あなたの粗大ゴミ、市町村が回収しにきますか?それともリサイクル業者なんかにお金払って引き取ってもらいますか?

        どっちにしても一緒なんです。

        どっちにしても行き先は「クリーンセンター」です。結局ここにくるんです。だから私達は直接行きました。どんなんになっとるんだ、と。ええ、燃えるゴミだろうが燃えないゴミだろうが、家具でも自転車でもプラスチックでも何でもござれです。「○○トン」でなんぼ、の世界ですから。。

        あ、でもテレビとか冷蔵庫、エアコンなんかのリサイクル法にひっかかるやつは駄目だって、そう書類に書いてました。でも、実際には。。。

        都市部にはたくさんのゴミがでます。人間がゴミをだすのか、はたまたゴミが人間なのか、それは分かりませんが、今回は良い社会科見学ができましたよ。


        みなさんも都市を支える「クリーンセンター」へ行ってみてはどうでしょうか。



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          秘密基地

          少し曇った昼下がり。路面にはまだ朝の雨が残っている。

          そこは閑静な住宅街を抜けた郊外。といっても住宅地からはほんの数分、坂を上ったところにある。

          家の前では、小さな子供がお母さんに向かって一直線に突進している。どうやら走る事を覚えたらしい。何回も何回も、離れては走り、離れては走る。

          信号待ちの車窓から、そんな柔らかな幸せをお裾分けしてもらいながら、我々は坂を駆け上がった。



          「あった!」

          それはカーブを曲がりきったところに突如として現れた。異様に長い煙突と白い煙。我々は少し戸惑いながらも、スピードを落としてゆっくりと進む。何か、見つけてはいけないものを見つけてしまった感じだ。

          こんな巨大な建物がこんなところにあったなんて。
          建物、というより建造物というべきか。いや、要塞と呼ぶべきかな。某国ならちょうどこんなところに軍事施設をつくってるんじゃないか、などと想像を膨らませながら、煙突を見上げた。

          「いよいよだな。」

          決意にも似た表情をうかべる我々をよそに、入り口には「午後の受付は1時からになります。」という看板。

          入れん、、。

          ・・・・・・




          気を取り直して出直し、また同じ道を走る。

          改めてみても、デカイ。
          しかしそんな巨大な建造物が、ひっそりと、ちょうど住宅街から隠れるようにして建っているのだから不気味だ。


          我々は受付を済ませ、簡単な説明を受けた後、更に深部へと車をすすめていった。


          至るところにカメラがある。余計な行動はするな、という暗黙のプレッシャーを感じずにはいられない。


          我々は少しこわばった表情で愛想笑いをしながら、ゆっくりと指定された場所へ車を移動させた。

          ここが目的を果たすべきゲート。

          「なんなんだここは!?」




          監視員が無表情で近づいてくる。そして何も言わずにゲートを指差した。
          ゲートのハッチが開く。ここにブツを投げろ、ということである。
          おそるおそる下と覗き込むと、巨大なベルトコンベヤーがうごめいているのがわかる。

          我々はその場の雰囲気に飲まれたのか、会話する事もなく黙々と作業に入っていった。


          いす

          パネル



          自転車

          またパネル

          プリンター

          ペンキの空き缶

          ベッド

          etc

          ・・・


          そう、ここはゴミ捨て場なのだ。
          燃えるゴミも燃えないゴミもない。金属だろうがプラスチックだろうが関係ない。
          ただひたすら、ゴーゴーと音を立てて流れていくベルトコンベヤーに投げ入れるためだけの場所。

          北海道弁でゴミを捨てる事を「ゴミを投げる」という。関西では「ほかす」だ。だがここでは、正にゴミを投げ捨てるといった表現が正しいと思う。家具を放り投げていく作業。自転車をぶん投げる作業。音楽ひとつないだだっ広い空間にただ「ガシャーン!」「ドーン!」という音がこだまする。




          作業はほんの10分ほどで終わった。何の事はない。それだけの事だ。

          なのに何だか心がそわそわしている。いけない事をしたような罪悪感といらないものを捨てたすっきり感を混ぜ合わせたような、なんだか、とにかく、しっくりこない。何か心にひっかかっている。何かが心臓をギュッとさせる。


          でもそんな事を考える間もないままに、最後のゲートに向かわされた。
          ここで料金を払うらしい。「220kgー3000円。」

          考えるのをやめろ。

          誰かがそう言っているような気がした。


          いまここで220kgのゴミが捨てられた。それだけの事なんだ。
          空虚な気持ちになる必要なんてない。毎日ゴミが捨てられている。その中のたった一粒を目撃したにすぎない。




          ・・・


          でも、

          ものをつくる人がいて、それを売る人がいて、それを買う人がいて、使う人がいるんだと思う。
          そしたら壊れたものが出てきて、要らなくなったものが出てきて、結局捨てる事になるんだと思う。


          どこに!?


          ・・・




          地球を我がもの顔で占拠している我々人間は、多分他の種族からしたら迷惑千万なんだろうけど、それでも我々は国境なんかを勝手にひいてみたりして、その線引きが原因で喧嘩になって殺し合ったりして、地雷を地中に埋めたりする。あるいは汚い水は見たくないから海に流せば自分達とは関係ないと思っている。土を自分たちのものだと思い込み、水を人間の所有物と勘違いしている。とにかく我々は数ある種族の中で唯一、ゴミを出す種族だ。どんどんゴミを出す。そのまままだと汚いからゴミを燃やす。砕く。そして埋めちまう。我々はゴミを出し続ける。どんどんどんどん、どんどんどんどん出し続ける。最初に見た幸せそうな家庭からも、どんどんどんどんゴミが出てくる。それは仕様がない事なんだろう。俺もゴミ出しまくりだし。でも、そのゴミが砕かれ、燃やされて、あの高いトンネルからモクモクとした煙に変わる。そしたらその煙は大気中にばらまかれて、そうして、あの子の肺に入っていくんだよ。そう思うとゲッとなる。でも仕方ない。仕方ないと思わないといけない。たぶん。。

          別に環境に配慮するとか、エコとか、そういうのに興味ないけど、「地球にやさしく」とか聞くと逆に「お前何様だよ。なんで人間が上から目線で、やさしく、なんだよ。どこまで人間中心だよ。」とつっこんでしまうけど、結局人間ていろんな意味で残念な生き物なんだなって思う。



          ゴミ=不要なもの=無くなった方が良いもの=残念な生き物=人間=俺=ゴミ



          我々は車中でそんな事を思い巡らせながら帰路についたのだった。








          あ、今日の車、ディーゼルでした。てへ。



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            真っ白3




            あの〜。そちらでハードを修理していただけると聞いたのですが、見積頂けますでしょうか?
            いやに丁寧な言葉遣いの自分に目眩を覚えながらも、私は出来るだけ丁寧に症状を説明した。

            「あー、それだと完全にハードが壊れている状態ですねぇ。分解してみないとどれくらいの損傷なのか分かりませんけど、○○万くらいはかかりますよ。」

            電話の向こうの彼は、あまりに簡単に、そして簡潔に、見積もりを出してくれた。ストレートすぎる言い回しに躊躇する私。
            職人によくいるタイプだ。ぶっきらぼうだが、そこに嘘はない。正直に、率直に話している印象を受ける。

            だとしても絶句してしまうくらいの値段に変わりはない。
            つーかそんなにかかるのかよ!という気持ちと、お金で解決できるなら、、という気持ちの間で心は激しくせめぎあっている。

            そしてしばしの沈黙の後、察したように彼は言った。

            「いま言った値段は最低でもそれくらいかかるという事なんですよね。実際、あなたのデータにそれくらいの価値はあるんですか?ないなら諦めた方がいいですよ。」

            なんと言う問いかけだ!
            自分のデータの金銭的価値。つまり私のデータはどれくらいのお金を生むものなのか。そんな事いままで考えた事がなかった。そして今問われている。自分の作品の写真やデータ、そして出会ってきた人達のコンタクトリスト。一体それらの金銭的価値はいくらなのだろうか?

            即答できなかった。

            ぼんやりと携帯のスピーカーから聞こえてくる声。彼の説明によると、ハードのデータをサルベージしてほしいというという電話は結構頻繁にかかってくるらしい。でも修理費がこれくらいかかりますよ、と告げるとほとんどの人はキャンセルするそうだ。それはそうだと思う。なにせ修理費で新しいのが何台か買えてしまう値段だ。誰だって簡単に「お願いします。」とは言えないだろう。

            しかし私はその事で即答できなかったわけではない。

            自分のデータの価値、即ち自分が活動してきた事のアーカイブにそれだけの価値があるのか、そう自問自答してしまっている自分に正直驚いている。それは己を信じていない、という事なのかもしれない。これまでの活動は修理費を上回るだけの価値があったのか、これまで書いてきた論文や文章は後世に残すくらいの価値があるのか、これまで知り合ってきた人の連絡先は、後生大事にするくらいの価値なのか、そういう事を考えてしまった自分がいる、という事実。

            考えてしまったという事は、逆にいえば疑っているという事である。というか本心ではホッとしたのかもしれない。はっきり言って人間関係にうんざりしている時期だったし、作品に対しても変革の時期だと感じていたのは確かだ。頭は考えている。今回の件を理由にして、自分を許す言い訳にして、この事件を契機に全てのしがらみから解放されるのではないか。大げさに言えば、過去を全て消し去り、新しい自分に生まれ変われるチャンスなのかもしれない、と。

            とはいえ、そこで決断できる程私は純粋ではない。一巡り考えると、もう一人の自分が冷静に対処しようといているのを感じる。
            お前はもうすでにどっぷりと社会に漬け込まれているのだ。いままでやってきた事を捨てられるはずがない。明日からどうするんだ。不毛な事を考えるくらいならさっさと問題を対処して、早くリカバリーしろ。人生ってやつは積み重ねが大事なんだぞ。

            そんな大人な自分を感じると、またそれが自己嫌悪を増長させてげんなりする。
            しがらみってやつはどこまでも強大だ。どこまでも自分の判断を鈍らせる。

            「一度、考えて、みます。また、連絡します。」

            弱弱しい声で、電話をきった。そしてふらふらと近くの公園を探し、ベンチにどかっと腰掛けてタバコに火をつける。

            「あぁ、いままでやってきた事って何なんかなぁ」



            あと一回つづく。
            *1と2へは「Categories」の中の「文章・詩 」をクリックしてください。


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              真っ白 2




              これまで心斎橋店でサポートを受けた事はなかったが、ロンドン店での治療をみるかぎり、
              かなりの症状でも適切に診断、治療してくれるはずである。

              そう、ここは「ジーニアス」がいる場所だ。

              私は期待しながら、すこし興奮気味に症状について訴えた。

              「では、とりあえずほかのハードから起動してみましょうか。」

              医者はいろんなコードを引っ張りだし、モニターを外付けに変え、専用のハードディスクを接続してボタンを押した。

              デゥアーン!

              ああ、この音だ。この起動音を待ってたんだよ!
              なんだかキリストが「受胎」した時のような宗教的な響きを感じながら、天井を見上げる私。


              ・・・

              「あれ、おかしいですね。」

              え?
              悦に入っていた私をよそにジーニアスは渋い顔をしている。

              「認識してませんね、ハード。」

              なんでやねん!

              だってダーンて。ダーンて鳴ったじゃん!

              取り乱しながら関西弁とも関東弁とも違う言葉で叫ぶ私。


              しばらくしてジーニアスは少し申し訳なさそうな表情で、やさしく丁寧に、しかしきっぱりと症状について語りはじめた。

              ナニモキコエマセーン・・・
              キキタクアリマセーン・・・

              説明はこうだ。
              要するに論理的な問題であれば、ここで解決できるのだが、ハードを認識していないという事は、物理的損傷が考えられる。しかも全く認識していないということはかなり重度の損傷だろう。これを修理するには専門の設備が整った場所でないと無理だが、アップルとしてはそのようなサービスをしておらず、ハードの交換という方法をおすすめする。


              えっと、よくう理解できませんが、つまりアレですか!?
              ハードの交換て事はいままでのデータが全て消えるって事ですか?

              「ええ、つまりそういう事です。残念ながら。」

              ガーン!ほんとにガーンだよ!
              こんどはお寺の鐘のような音が脳みそを直撃した。

              でも、まだにわかには信じられない。いや、信じたくない。
              私は何か、何とかデータを失わない方法はないか、しつこくしつこく訪ねた。

              「ええ、これはアップルが奨励してるわけでは決して無いのですが、じつは民間でデータをサルベージしている会社はあります。」

              もう何でも良いよ。それだ。その番号を早くくれ。
              君はジーニアスではなかったのだ。ただそれだけの話なんだよ。
              自分の責任を棚上げして、悪態をつく私。

              「ただ、アップルとしては保証できませんので、あくまで自己責任という事でお願いしますね。」

              保証も責任もいらない。ただデータが欲しいだけなんだよ。
              私は最悪の客を素で演じながら、その番号をむしり取るように受け取り、マシンガンのような早さで番号を打ち込む。

              データのバックアップは一応一年前にとっていたものの、そのハードディスクはロンドンにある。いま欲しいデータは何もないのだ。
              それに写真、書類を失うという事は私はこの一年、何の活動もしていない事になる。つまり私は生きていないも同じ。ただの物体に過ぎない。

              この悪夢を打開してくれる、受話器の向こう側へ。
              私はすがるような気持ちで電話をかけた。

              つづく。



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                真っ白





                それは突然の出来事だった。

                私はいつものようにマックを立ち上げ、ネットに接続した。
                一通りニュースを確認した後、溜まっていた画像処理をしようと、
                フォトショップをあける。

                フォトショは重いアプリだ。私のG4ではアプリが軌道するまでに5分くらい時間がかかる。いつも待っている間にイライラさせられるのだが、相当調子が悪くなっている状態が続いているのも関わらず酷使させてきたのだから、多少のストレスは我慢しよう。

                何時間か作業した後に、一旦休ませようと本体をスリープさせ、同時に私も休憩する事にした。


                そういや日本に帰国した時に興奮していろいろパソコンサプライを買ったなぁ。
                外付けのハードディスクも買ったし、そろそろバックアップも取っておこう。

                そう思い立って、ヨドバシで買ってきた袋をガサガサ開けて、新しい250GBのポータブルハードディスクを取り出す。これで帰国前からのプラン通り、G4を修理に出す事ができる。もう洗濯バサミで液晶を調整する事もないのだな、と思うと少しうれしくなった。その前に全データをバックアップしておこう。


                さて、USBを繋いでっと。。


                、、


                。。。


                あれ、何この異常音。。


                アレ、フリーズしてるんですけど。。


                オーイ!


                彼から返答はない。


                少し焦って、いろんな方法を試してみても反応はなし。

                強制終了からリスタートしても反応はない。


                そうだ、ここはあれだ、俺では彼を治せない。だから医者だ!医者を呼べ!
                そう、高熱を出している彼には医者が必要だ!!!


                私は努めて冷静を装い、マックストア心斎橋店に電話した。
                ここで焦ってはいけない。

                とはいえ、私は心配していない。そこはゴットハンドを持つ医者がいる場所。
                前に何度も救われた、神のいる場所、ジーニアスバーなのだ。

                「あの〜、ジーニヤスバーのサポートを予約したいのですが〜」

                私は急患だと言う事を必死にアピールし、午後の診療を予約して京阪電車の特急に飛び乗った


                つづく




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                  サヨナラ△マタキテシカク





                  いろんなものと出会い、そして別れる。
                  違ったものに生まれ変わる時も、ある。

                  でもそれは、元通りになる事ではない。
                  三角が四角になったって、それは三角じゃぁない。

                  だからいっその事、全部消えてしまえと思う。
                  消えて無くなってしまえ、と。

                  その方がむしろ丸くなるような気さえする。

                  円になってしまえば、後はどんなかたちにもなれる。

                  でも、どんなかたちになったとしても、
                  それは元の三角じゃぁない。

                  だから興味なんか湧かない。

                  やっぱり消えて無くなるのがいい。
                  その方が、いい。







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                    on the table.




                    何もない方がおいしく感じるわ。

                    それは既に君が満たされているからさ。

                    腹が減っていたらそんな余裕なんかない。

                    でもやっぱりテーブルは賑やかな方が良いわね。

                    だから人は止めどなく太っていくんだよ。

                    だって仕方がないじゃない、それが人間だもの。

                    そう、だから人は人間にはなれないんだ。

                    じゃあ人間て何なのよ?

                    それを考えるのもまた人の特権さ。







                    ‥‥‥う〜ん、
                    全く意味がわかりませんが、とにかく、
                    個人主義と全体主義の違いとか、
                    personとpeopleとhumanの間というか、
                    そんな事を考えなくもない、
                    最近です。



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