みえてないおよそ人間は見たいものしか見ない。
よく「客観的に述べよ」という言葉を聞くが、それはほぼ不可能に近いのかもしれないと思った。まぁ「的」なので、それっぽく言えばいいという事か。 しかし最近の自分的NGワードは「〜的」「〜な感じ」「一応」「とりあえず」だ。とりあえずそんな感じだ。 なので、どうして人間はそんなに「見ていないのか」考えてみた。 昔、真理は楕円だと禅宗の坊さんから教えてもらった。学生時代の話だ。教えてもらった時は何の事かさっぱりだったけど、どうやらそれは、楕円には常にふたつの頂点があるという意味なのかな、と思っていた。陰と陽、全ての出来事には常に二面性があると言い換えても良いかもしれない。 しばらくして、今度はその坊さんに「真理にはいつも楕円。つまり物事の二面性を言っているんですね」と言うと「真は円であって円でない」と言われた。 「この前楕円て言ってたやん!」何のこっちゃ。 だいたいそういう物言いからしてトンチというか一休さん的というか、要するに禅坊主って感じだなぁ。 で、ぼーっとしながらふと思ったのですが「真は円にして円にあらず」というのはどうやら球の事を言っているのではないかと。つまりひとつの事実を捉えて分かったような気になるのが人の常だけど、真実というのはそんなものではなく、角度を変えて無数にあり、それが集まった状態が即ち「球」なのかな、と。だから「円であって円でない」のかなと。 違うかな!? 私はそこからまた少し考えて、「ビー玉は真理」という事にしてみた。 球体はたくさんの面を持っていて、観る角度によって光を集め、時には反射させて、様々な表情をみせる。しかしどのような面だとしても、球は球であって、ひとつだ。つまり真理の中にはたくさんの真実が隠されているのだけど、姿形が変わってもやっぱり真理は常にひとつ、という事か。か? あれ? こういう風に考えてしまうと思考のスパイラルにハマってしまって落としどころがなくなる、という事も分かっているのだけど、どうしても言語で理解しようとするとそうなる。でも何となくイメージは掴めたし、これ以上考えるとメンドクサクなるから今のところは良しとしよう。 と考え事をしながらビー玉で玩んでいると、ころころを転がってどこかに行ってしまった。ん!?それをさっきの「真理はビー玉である」に置き換えると、真理は球体故にフッと目を離した隙に捉えどころなく転がっていって消えてしまう、という事になる。きちんと捕まえていないと離れてしまうのが真理なのかもしれない。 またビー玉を光にかざしてみた。目の前にある景色は確かに見慣れたものなんだけど、ビー玉の中の景色は天地が逆になっていた。当たり前といえば当たり前なのだが、これも先ほどと同じように考えると「ある人によって正しい世界は、またある人によってはただしくない世界である。しかし世界そのものは変わっていない」という事になるのかもしれない。 目の前にある景色だけを見ていては逆さまになった世界は見えないし、その逆もまた然りである。 では一体私は何を見ているというのか。 人間の脳は随分とよく出来ていて、これは本能的な防衛反応からなのか、見たい事実を「真実」と捉える傾向にあると思う。いつでも自分にとって都合の良い事実のみが「真実」なのだし、反対に見たくない事実は「真実」でも何でもなく、嘘であり、まやかしであり、その内忘れるようになっているのはないか。 だから真実なんて探しても、たいした意味なんてないのかもしれない。しかしそこに何があるのか、やっぱり見ようとする姿勢は必要だと思う。 とりあえずそんな感じでビー玉を眺めていた今日の朝。 さぁ、二度寝しよ。 ↓↓ 1day 1click, Thank you〜 ↓↓ |
書家の写真 ∞ 八戸香太郎
活動してきた各国の街を撮影中。オフィシャルなHPは→→→